小林幸子

それは日本人なら誰もが知っているであろう紅白クイーン。紅白の小林幸子といえばもう年末の風物詩だと思っていたので、2012年の紅白では出場していなかったのが残念で仕方がありません。出演当初から2011年まで、年々煌びやかさと体積が増していく斬新な出で立ち、ステージはおろか、会場の外溝まで埋め尽くさん勢い(あくまで勢いですよwww)の衣装、いや、あれは衣装というより小林さんという城を包む豪華なエクステリアといっても過言ではないでしょう。そして光って動いて舞い上がる荘厳なギミックの数々…いったい施工にはどれだけの手間暇がかかっているのでしょうか。きっと小林さんの元には腕の立つ衣装スタッフが大勢いるのでしょう。1990年代は歌って輝く巨大なイルミネーションと化し、2000年代は徐々に動きを見せる形態に移行し、怪獣のような生き物に乗って移動し、飛び立つなどなど非常に夢のあるステージを見せてくれました。

凡人にはおおよそ理解できない圧倒的な存在感は、まるで某有名RPGのラスボスのようだと至る所で話題になっていますね。そんな年末のラスボス・小林幸子さんについて色々と調べてみました。今年の年末にはまた紅白のステージに華麗に復活してくれる事を祈っております。

小林 幸子(こばやし さちこ、1953年(昭和28年)12月5日 - )は、新潟県新潟市中央区出身の演歌歌手、タレント、女優。本名、林 幸子(はやし さちこ)。旧姓、小林。血液型はA型。身長165cm。

漫画家の小林まこととは親戚である。

来歴

1960年代

1963年、9歳の小学4年生の時にTBS『歌まね読本』でグランドチャンピオンとなり、審査委員長の古賀政男にスカウトされる。当時はテレビの音楽番組などは生放送であり、夜7:30のテレビ出演というのは、当時の子供にとっては遅い時間帯であった。この9歳の少女ということも「美空ひばり」を彷彿させ、その「ひばり」のものまねも他の大人の出場者を圧倒する抜群の歌唱力と非常に似ているものまねの出来で、後に「第二のひばり」といわせるものであった。これが古賀を唸らせ文句なくグランドチャンピオンを獲らせたのである。

翌1964年には新潟市内で肉屋を営んでいた家族とともに上京して古賀事務所に所属し、古賀作曲の『ウソツキ鴎』でデビューする。デビュー曲がいきなり20万枚のヒット曲となる。「天才少女歌手・ひばり二世」として、大映映画では子役としても活躍した。当時まだ9歳の子供だったために楽屋内でワイワイ騒いでいたところをある先輩歌手が激怒し、島倉千代子にすぐに注意して来いといわれて島倉が嫌々仕方なしに小林の元へ注意にいったとNHK『ふたりのビッグショー』のトークで語った。「お幸、楽屋というところはステージに立つ前の神聖な場所なのだから騒いだりするところじゃないのよ」と注意したそう。その当時から島倉のことを「母さん」と呼び慕い、島倉も「幸」と呼んで、現在まで自分の娘のように可愛がっており親交が深いという。

1966年7月30日から1968年1月27日まで日本テレビ『九ちゃん!』に『チビッコトリオ』としてレギュラー出演している。

1968年にはNET(現:テレビ朝日)で放映、背泳ぎでオリンピックを目指す、スポ根ドラマ『青い太陽』の主役を演じる。しかしヒット曲が続かず、お手本としていたはずの美空ひばりの母親から、あまりにもひばりを模倣されているとの嫌悪感から敬遠され、徐々にスケジュールが空白になって仕事が激減していき15年の長い不遇が続く。当時、興行の世界を牛耳っていた山口組三代目に娘同然に可愛がられているひばりに嫌われることは致命的なことであった。後年、NHK総合テレビ『NHK歌謡コンサート』の美空ひばり特集に出演時、司会の小田切千(NHKアナウンサー)から生前のひばりとのエピソードを尋ねられると、『おもいで酒』 が大ヒット後に音楽番組共演やドラマ共演などが縁で、後にとても可愛がっていただいたと語っている。ドラマ撮影時はスタジオ以外に街中や繁華街などでも撮 影したが、万一ひばりの身に何かあれば大変だと思い、周囲を気にしながら演技をしていたところ、ひばりに感付かれてしまい「幸子ありがとう。私の心配をし なくても全然大丈夫よ!」と言われて、逆に気遣わせてしまったという。

低迷期には15年間に渡って一人で全国各地を行脚し、地方興行の中で人に言われぬ苦労を経験した。昼間は各地の興行を行いながらも地元のレコード店 やラジオ局、有線放送局などへ一人でキャンペーン廻りをしていた。夜には毎晩深夜遅くまで飲み屋やキャバレーなどの繁華街を泥酔客に絡まれたりしながらも 歌い廻っていた。未成年だった時は20歳といって年齢をごまかして深夜の営業を行っていたと小林本人が日本テレビ『いつみても波乱万丈』で語った。

その間には小林幸子(日本コロムビア)→小林さち子(ビクターエンターテインメント)→岡真由美(テイチク)→小林幸子(ワーナー・パイオニア)と幾度も改名したりレコード会社を移籍した。過去にはサンミュージックプロダクションにも所属していた。

1970年代

1974年には第一プロダクションに移籍する。低迷時の1977年には雑誌平凡パンチのグラビア内でセミヌードを披露した。1979年に『おもいで酒』が有線放送から徐々に火がついてついにミリオンセラー(200万枚)に輝く大ヒットをする。この年の暮れ『第30回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たす。『全日本有線放送大賞』グランプリ、『第21回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞に輝く(『おもいで酒』のレコード売り上げ枚数は大賞曲『魅せられて』を上回る。この年の『ザ・ベストテン』(TBS系)年間1位は『おもいで酒』である)。1978年の 大晦日は熱海へ興行に来ていて、終了後に小林のマネージャーやスタッフと一緒に紅白を見ながら「来年こそは絶対にヒット曲を出して紅白へ出たいな!」と話 したところ、スタッフ達に「幸っちゃん、絶対無理だよ!!」と笑われてしまったが、翌年にまさか本当にヒット曲を出せて初出場できたのが夢のようだったと 『いつみても波瀾万丈』内で語っていた。

1980年代

1980年にはシングル『とまり木』も大ヒットした。その後も『ふたりはひとり』、『もしかしてPartII』(美樹克彦とのデュエット曲)、『雪椿』などの大ヒット作に恵まれ、紅白への連続出場も果たし、1992年 - 2009年まで紅白での美川憲一と の派手な衣装対決は紅白恒例の話題作りとなっていた(美川は2010年以降は出場していない)。美川とは古賀政男の元で2人がデビュー前後から一緒にレッ スン指導を受けていたことで、互いの年齢は離れているが50年前から公私ともに親交が深くて、現在も「憲ちゃん」「幸ちゃん」と呼び合い、音楽番組以外に も一緒にバラエティ番組などに仲良く出演するなどデビュー当時からお互いの低迷時の苦労等を全て知り尽くしている。

1983年5月にはロサンゼルス、ブラジルなどで初めての海外公演を行い、新宿コマ劇場で初の単独座長公演を行った。

1987年には、第一プロダクションから違約金2億円で独立、個人事務所の幸子プロモーションを設立する。

1988年、紅白に10回連続出場。自身初となる紅組トリを務める。

1990年代

1993年、歌手生活30周年を迎えNHKホールにて記念リサイタルを行う。同年12月、紅白に15回連続出場を果たす。

1996年、ワーナーミュージック・ジャパンが演歌部門を撤退したのに伴い、古巣の日本コロムビアに移籍。

1997年、第9回日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞。同年にテレビ東京系アニメ『ポケットモンスター』のエンディングテーマソング『ポケットにファンタジー』を歌い、以後何度かポケモン関連の活動を行っている。『ポケットにファンタジー』がテレビ初放映されたのはポケモンショックの回であった。同年にはイマクニ?、レイモンド・ジョンソンとのユニット・スズキサンとしてシングル『とりかえっこプリーズ』を発売。ポケモンカードゲームのCMソングとして流れた。

1998年、芸能生活35周年を迎える。ジャズの殿堂ブルーノート東京にて、演歌歌手としては初のライブ「35th ANNIVERSARY Boogie&Blues」を開催。『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のエンディングテーマソング『風といっしょに』を担当。そして、同年の『第49回NHK紅白歌合戦』では『風といっしょに』を熱唱。また、この翌年正月に放送されたポケモンの音楽を紹介するSPでこの時着た衣装の前で同曲を熱唱した。

1999年、覆面歌手『Satchomo(サッチョモ)』としてアイフルのCMソング『お地蔵サンバ』を“お自動さん”キーホルダーつきで発売、暫く正体が明かされなかった。新宿コマ劇場にて「華麗なる幸子の世界」シリーズがスタート。紅白に20年連続出場を果たす。

2000年代

2000年、日本レコード大賞 美空ひばりメモリアル選奨受賞。

2001年、博多座で女性歌手初の座長公演を行う。『夢の涯て〜子午線の夢』で、日本レコード大賞編曲賞受賞。

2003年、芸能生活40周年を迎える。親友の美川憲一とともに、京楽産業のCR「華王」のキャラクターを務める。新潟県加茂市に「雪椿」の歌碑が建立。藤田まさと賞大賞受賞。紅白に25回連続出場を果たす。

2004年、第55回NHK紅白歌合戦で自身2度目の紅組トリ、初の大トリを務める。

2005年、新潟市、長岡市より特別感謝状を授与。日本レコード大賞特別表彰。

2006年、第27回松尾芸能賞大賞受賞。国土交通大臣より感謝状を授与。紺綬褒章を受章。名古屋・御園座にて初座長公演。

2007年、長岡市に『越後絶唱』の歌碑が建立。新潟市より、「新潟市観光大使」に任命。

2008年、芸能生活45周年を迎え、全国3劇場で座長公演を行う(御園座、博多座、明治座初座長)。文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞。『第59回紅白歌合戦』で45周年記念曲『楼蘭』を熱唱、紅白に30回連続出場を果たす。

2009年1月1日、国立競技場にて開催された、第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会の開会式で国歌君が代を歌唱した。伊東四朗・熱海五郎一座合同公演「日本映画頂上決戦」にゲスト出演、劇中には大婦人と呼ばれる小林幸子の顔をした高さ7メートルの大人形が登場、大婦人は公演終了後、新潟市のNEXT21に展示されている。『第60回NHK紅白歌合戦』に紅組歌手初の31回連続出場を果たす。

2010年代

2010年1月16日と翌17日には、台北市の台北国際会議中心でコンサートを行い、1993年と2006年のNHK紅白歌合戦で披露された衣装を台湾の観客に披露した。

2011年4月7日には、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災) で被災して避難所生活を送る被災者を激励するために福島県相馬市を訪問して、自ら用意した無洗米10トンとまんじゅう1万2千個を豪華衣装や舞台装置運搬 用でもある自己所有の大型トラックに載せて市内8カ所の避難所へ救援物資を届けた。5月27日にも以前から交流があった大槌町の避難所を訪れて、救援物資 などを持参して地元のボランティアと一緒に自ら炊き出しを行い、被災者のために『おもいで酒』などの代表曲を数曲熱唱して激励した。

2011年11月15日、再生医療などを手がける株式会社TESホールディングス代表取締役社長の林明男と電撃結婚。 2011年11月20日に は東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手・陸前高田市と宮城・気仙沼市を慰問して2004年に中越地震で被災した故郷、新潟・長岡市(旧山古志村)に所有 する田んぼ「幸子田」で10月に収穫した新米「幸子の復興米」2トンを所有する大型トラックに積んで贈呈した。陸前高田市立高田小学校と気仙沼市立唐桑小 学校で開かれたイベントを訪れてミニコンサートを開催した。

2012年5月1日 日本財団主催の「被災地で活動した芸能人ベストサポート」で表彰される。

2012年4月、小林は長年のビジネスパートナーであった幸子プロモーションの女性社長と専務を解雇した。主な原因の一つは小林の夫・林と女性社長の口論だと考えられている。この騒動で新曲『絆坂』は発売が無期限延期となった。

2012年8月20日、レコード会社・日本コロムビアと契約解除に合意。10月予定で当初小林自身の作詞・作曲による新曲をインディーズから発売することを考えていたが、10月17日に来年のデビュー50周年記念曲としてさだまさしに製作依頼していた『茨の木』 を新曲として急遽発売することになった。レコチョク先行配信日の9月27日には都内で新曲発表と新レーベル『Sachiko Premium Records(サチコプレミアレコード)』発足の会見を涙ながらに開いた。「新曲は演歌ではない」と新路線で臨むことを明かしており、売り上げの一部は 東日本大震災復興基金へ寄付に充てられる。発売翌日の18日には、代官山蔦谷書店で発売記念イベントを行った。約200人のファンが駆け付けた店内を、ス ケスケの衣装で登場した小林は「歌い手として、こうして歌えること、新曲を出せたということ、これが一番幸せです」と笑顔で語った。同曲や代表曲「雪椿」 「もしかして」なども披露したが、涙を流すファンの姿を見て「泣かないでください。私も一緒に泣いちゃった」と涙ぐむ場面もあった。34年振りに各地を キャンペーン廻りして、2012年末までに自主製作では異例の2万枚を売り上げた。

2013年2月24日に は台湾で開催される伝統行事「台湾ランタンフェスティバル 2013」の開幕式典に、国賓級の待遇で日本人歌手としては初めて招かれることが決定した。また2月22日、23日には2回目となる台湾コンサートの開催 を発表して、2012年の紅白出場決定時に発表予定で製作された幻の豪華衣装も披露する予定であると伝えている。

エピソード

先述の通り、「小林幸子」は結婚前の当時の本名であるが、デビュー当時、古賀は『歌まね読本』での小林を知らない層を考慮して「夕波千鳥」という芸名を準備していた。

姉御肌であり演歌やポップスなど後輩歌手への面倒見などがとてもよいそうで、中でも後輩歌手の柏原芳恵を実の妹の様に可愛がっており、柏原も小林を姉のように慕っている。柏原は『ザ・ベストテン2002』など様々な番組の中で「幸子姉さんには落ち込んでいる時に精神的に助けて頂いた」と感謝の念を述べている。また小林も「芳恵ちゃんはデビュー当時から変わらぬ初々しさで、とても可愛く、本当の妹の様に思っている」と返した。泉ピン子は美川憲一と同じく、互いの低迷時の苦労を知りつくしている親友であり、グッチ祐三もプライベートで親交が深い親友の一人である。

『おもいで酒』がロングヒットになり、『ザ・ベストテン』でも常連出場に成りかけた頃に、視聴者からの葉書で、いつもマイクを持つ人差し指が立って いる(他の指は握っているが)という事の指摘があり、本人も何となく以前からそうやっていたという話であったが、今はその握り方ではなく人差し指でも握っ ている。イケメン合衆国に出たとき、高田純次によって紅白でつかった衣装が被害をくらった。

音楽番組だけでなくフジテレビ『ドリフの大爆笑』などのバラエティー番組にも過去に何度か出演しており、清掃員のおばちゃん役など非常にコミカルな中年女性役をこなしている。

さだまさしとはプライベートでもたいへんに親交が深く、1993年の『約束』、2012年の『茨の木』はさだの制作曲である。小林もさだのことを『お兄ちゃん』と呼び慕っている仲でもあり、さいたまスーパーアリーナで行われた「さだまさし還暦バースデーコンサート」には総勢60人のゲストの中の1人として出演した。